2007年06月29日

加賀のあゆみ

文明3年(1471年)に、本願寺の八世法主である蓮如は、延暦寺の弾圧を逃れて北陸に向かい、加賀と越前の境にある吉崎に根拠を置きました。農民層を中心に精力的な布教を重ね、一向宗の門徒は急速に増大していきました。

一向一揆は、富樫政親も自刃するほど影響力が強く、加賀の国には「百姓ノ持チタル国」が生まれ、戦国時代にはまれな一向宗の支配する政治形態は、柴田勝家の武将である佐久間盛政によって落とされるまで約100年間にわたり続きました。

織田信長は、御坊跡に佐久間盛政を配して軍政に当たらせましたが、佐久間の死後、前田利家がその後継者となりました。前田利家は、天正11年(1583年)に尾山城に入城し、金沢城と改めました。以来、金沢城は加賀百万石の本城として、14代300年にわたって続きました。

加賀の瀬越(せごえ)と橋立(はしだて)の地域には、日本海交易で巨額の富を築いた北前船主が多く住んでいました。

明治初期がその黄金期で、「日本一の富豪村」と言われたほどで、船主が住む村には税金がなく、学校や道路も船主たちからの寄付金によって建設されていました。橋立地区にある2軒が現存しており、北前船主邸として公開されています。

明治時代以後は、農林漁業・織物・輸送用機器・九谷焼・漆器などの産業が盛んになり、次第に繁栄していくことになりました。

平成17年(2005年)に加賀市と山中町が合併・市制を布き、新加賀市となり、現在に至っています。

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